東日本大震災について

2011年3月11日14時46分。東北沖で発生した地震。東日本大震災。
あのときの記憶を風化させずに未来に生きるこどもたちへ伝えていくことは私たちの使命だと思います。
海外まき網漁業の乗組員は東北地方の方が多く乗船しています。弊社でも当時50名ほどの乗組員が東北地方出身者でした。被災者の乗組員を多く抱える弊社があのとき何を考え、どのような行動をとったのかをここに記録しておきます。

活動記録の概要

各船 活動記録支援船

第1便:123福一丸 3月13日焼津発 ~3月25日石巻発支援船

第2便:112福一丸 3月20日焼津発 ~3月28日石巻発支援船

第3便: 83福一丸 3月21日焼津発 ~3月31日石巻発支援船

第4便: 85福一丸 3月26日焼津発 ~4月 2日石巻発

・2011年3月11日(金) 14:46分:東日本大震災発生

・3月12日(土) 朝~夕方 漁場にいるほとんどの船が、漁場を切り上げだした。

・3月12日(土) 夜 支援物資が大量に集まりだした。

・3月13日(日) 早朝~朝 123福一丸 支援物資積み込んで石巻向け出港。

・3月14日(月) 10時30分123福一丸 石巻港外着~家族安否確認

・3月15日(火) 123福一丸 網地島・田代島住民へ支援物資を搬送

・3月15日(火) ラジオにて支援物資と仕分けボランティアの募集

・3月16日(水) 漁撈部職員2名を石巻に派遣

・3月16日(水)~18日(金) 大量の支援物資が福一漁業に届きだした

・3月17日(木) 123福一丸 石巻大原地区避難住民へ支援物資を搬送

・3月18日(金) 83福一丸 焼津入港。123福一丸が水産庁救援物資運搬船、白龍丸の荷物積み下ろしを手伝う。

・3月19日(土) 85福一丸・112福一丸 焼津入港。~3月20日(日) 112福一丸出港。3月20日(日) 83福一丸の水揚げ

・3月20日(日) 83福一丸の水揚げ

・3月21日(月) 112福一丸 石巻着 83福一丸 焼津出港

・3月22日(火) 123福一丸の残った支援物資を112福一丸へ移動

・3月22日(火) 海上保安庁が石巻工業港を調査。3月23日、石巻工業港使用許可が下りる。

・3月23日(水) 112福一丸 石巻工業港接岸 自衛隊へ支援物資を受け渡した。(自衛隊のトラック4台分)

・3月24日(木) 83福一丸 石巻工業港接岸 自衛隊へ支援物資受け渡す。

・3月26日(土)~3月28日(月)

・最後に

・支援物資を寄付してくれた方々とボランティアの方の名簿

2011年3月11日(金) 14:46分:東日本大震災発生

弊社の所在地、静岡県焼津市では震度4の揺れであったので、少し大きめの地震があったなという程度の感覚であり、揺れがおさまってから、しばらくはテレビをつけて現地の様子を見ていました。そのうちニュースでは日本地図が映し出され、静岡県焼津市も赤いラインの津波警報が発表されました。16時頃になると焼津市は赤と白のラインの大津波警報に変わり、東北地方に津波が押し寄せる映像がどこのテレビでも映し出されます。この時点で「これは大変なことが起こっているぞ」とようやく認識することになります。

16:00をまわると社長の指示により、社員全員業務を切り上げて帰宅(避難)することになりました。私も家に帰り、すぐに家族とともに海抜の高い隣町の藤枝に避難し、車のカーナビでニュースをつけていたことをよく覚えています。
この日は夜遅くまで藤枝から現地の様子をニュースで見ていました。

一方、海外まき網船は、当時、太平洋中西部海域、(緯度S1度~N1度) (経度143度~160度)の漁場に26隻が操業中。
(日本まで船で全速にて航行し1週間の距離)。日本の港を出港し漁場に向けている船が4隻という状況でした。弊社の船の状況は83福一丸:手持ち約1050トンにて漁場。85福一丸:手持ち約230トンにて漁場。112福一丸:手持ち50トンにて漁場。123福一丸:3月11日午前10時に焼津港を出港して漁場向け。128福一丸:手持ち80トンにて漁場。という状況でした。3月11日の地震発生直後は、漁場にいる船はテレビも見られませんし、陸上の状況は遅れて伝わりますのでそこまで深刻な認識は各船持っていなかったと思われます。

東日本大震災街の被害状況

3月12日(土) 朝~夕方 漁場にいるほとんどの船が、漁場を切り上げだした。

弊社はこの日、会社は休日でしたが、陸上勤務の社長と漁撈部職員全員が会社に集まってきました。皆、大変なことがおこっていることを認識し、被災している乗組員の家族の安否確認をしなければならないという使命感からの自発的な行動であったと思います。会社に出勤すると社長を本部長とする災害対策本部をまず立ち上げました。災害対策本部のやるべきことは、一番に乗組員の家族の安否確認です。乗組員本人の両親。配偶者。こどもまでに絞って安否確認をすることに専念しました。

大きな模造紙に被災家族のいる乗組員の名前が書かれた表を、船毎に作成し、漁撈部職員全員が見えるところに貼りだしました。この表の乗組員の被災家族と連絡がとれれば、表の乗組員にまるをつけ、沖にいる乗組員に知らせていくといったやり方です。漁撈部職員には担当船を割り振り、担当となった船の乗組員の被災家族と連絡をとるために朝から晩まで中々つながらない電話をかけ続ける日々がここから続くことになります。私は112福一丸の担当となりました。

安否確認とは別に、3月11日の午前10時に焼津港を出港して漁場に向けていた123福一丸は3月12日の午前4時頃に漁場向けから反転し、焼津港に帰ってきている途中でした。123福一丸にも多くの被災家族をかかえる乗組員が乗船しており、彼らからどうしても故郷である被災地に行きたいという強い希望があったので、会社としても全力で協力することにしました。支援物資の収集です。毛布、乾電池、紙おむつ、アルファ米など近所で購入できる支援物資となりそうなものを大量に購入しました。また、自分で購入するだけでは限度があるので、同時に友人に支援物資を求めるメールを送りました。

一方、沖で操業中の海外まき網船でも、地震発生から1日経過し、自分の田舎に大変なことが起こっているという認識をこの時点ではすでにもっていました。そして、3月12日の朝の操業を終了した時点で多くの海外まき網船が続々と漁場を切り上げ、日本に戻りだしました。聞いた話によると、『家族が被災して大変な状況にあるのに沖で仕事なんかやっていられるか!』といって会社の許可もとらずに勝手に日本に向けた船も何隻かあったということです。弊社の船も83福一丸・85福一丸・112福一丸の3隻が漁場を切り上げ、また3月11日に焼津港を出港した123福一丸が反転し、日本に戻ってくることになりました。

漁業会社は経営を続けるために魚を捕って魚を売ることが原資となります。経費としては1日15,000リットル~20000リットル使用する燃料代や、1日1隻100万円以上の入漁料を支払って島国の200海里にて操業をしています。これらを賄うために魚を捕って売らなければなりません。そのため、3月12日に多くの海外まき網船が魚を持っていない状態で漁場を切り上げたことによって、多くの漁業会社が経営の大打撃を受けました。

3月12日(土) 夜 支援物資が大量に集まりだした。

この日の夕方、私は友人達に支援物資を被災地に送るために船を出すので協力してください』という一文を送りました。するとその中の友人の1人が『福一漁業が船で被災地に支援物資を運びます。ご協力おねがいします。【拡散希望】』といった内容の投稿をSNSにしてしまいました。これによって、3月12日の夜から、うわさを聞きつけた地元住民から多くの支援物資が会社に持ち込まれ、夜の遅い時間にもかかわらず数時間で4トントラック1台分の荷物が集まりました。多くの人が被災者の人に何かしたいけど何もできないという想いをもっていたようで、感謝の言葉をたくさんいただきました。一方、素人が被災地に行っても邪魔になるだけだという心無い声もインターネット上でたくさんいただきました。

3月13日(日) 早朝~朝 123福一丸 支援物資積み込んで石巻向け出港。

午前2時45分、3月11日に焼津港を出港して漁場向けから反転していた123福一丸が焼津港に入港しました。数時間前までに集まった支援物資と雑用水を積み込み、ミーティングを行ってから午前9時30分、石巻へ向け出港しました。行き先を石巻にした理由は123福一丸の乗組員は石巻に被災家族が多くいたためです。ミーティングでは石巻へ回航する際には福島原発から20km以上沖合を航行すること。ガレキの混ざった水を船が吸い込んだりしないよう注意すること。ガレキが船底に擦すらないように注意すること。乗組員は無理をしないこと。といったような話をしたと思います。

3月14日(月) 10時30分123福一丸 石巻港外着~家族安否確認

3月14日、午前10時30分、123福一丸は石巻港外に到着しました。この日は現地での支援物資受け入れ態勢が整っていなかったため、荷物をおろすことはできませんでした。本船は大量のガレキによって岸壁に接岸することはできませんでしたので、本船に搭載してあるボートをおろし、乗組員は小回りの利くボートに乗り移り石巻に上陸しました。石巻に上陸すると、各避難所へ、まだ連絡のとれない家族を捜索しにいきました。ここで気をつけたことは、福一漁業関係者・ご家族の方は声をかけてくださいというプラカードをもって避難所を回ったことです。こうすることによって、自分の家族以外にも連絡をとれていない会社関係者の安否確認を効率的に行うように努めました。それから、乗組員は必ず指定された時間までに船にもどってくることも徹底させました。携帯電話がほとんどつながらない中、いつまでも家族の捜索をして乗組員まで行方不明になってしまっては元も子もないためです。

東日本大震災ご家族の方へ

123福一丸の乗組員が作成したプラカード。これを首にかけて避難所をまわった。

3月15日(火) 123福一丸 網地島・田代島住民へ支援物資を搬送

石巻では相変わらず受け入れ体制が整っていなかったため、石巻離島の網地島と田代島の住民に支援物資の一部を搬送しました。この頃、焼津の災害対策本部では、引き続き、なかなかつながらない電話で乗組員の家族の安否確認をするのと平行して、次から焼津港に入港する83福一丸・85福一丸・112福一丸も石巻に支援にいかせるということを決定しました。乗組員の精神状態がとても漁業を続ける精神状態ではなかったためです。83福一丸は3月18日にほぼ満船の状態で焼津入港予定。85福一丸は3月19日に手持ち約230トンの状態で焼津港入港予定。112福一丸は3月19日に手持ち約50トンの状態で焼津港入港予定となっていました。この中でほとんど魚を持っていない(魚倉が空いているので支援物資を大量に積み込める)112福一丸を第2号の支援船として石巻に派遣することを決定しました。

 

3月15日(火) ラジオにて支援物資と仕分けボランティアの募集

123福一丸に支援物資を積み込み、石巻へ向けてから2日ほどたつと、これが、マスコミ等にも知れられるようになりいくつかの報道機関から取材の要請をもらうようになりました。この時点で112福一丸を3月20日に焼津港から石巻へ向け出港させることが決まっていたため、ラジオを利用させてもらい、3月16日~3月18日までの3日間、近隣住民から112福一丸に積み込む支援物資の募集とその仕分けを手伝っていただくボランティアを募集することにしました。ラジオにて支援物資を募った際に、気をつけたことは、3月12日に1回目の支援物資をもってきてくれた方の中に、使い古した毛布や、ぼろぼろの古着といったゴミのようなものを持ってくる人。ダンボール箱になんでもかんでもごちゃまぜに入れてもってくる人がいたため、選別や廃棄で苦労した反省を活かし、募集する品物の種類を絞り、支援物資を入れる箱には1種類だけとして、箱に何が入っているかを必ず明記するようにして募集をかけました。尚、このとき募集した品物は水、パックライス(調理済み)、アルファ米、缶詰、レトルト食品、毛布(新品)、長靴、粉ミルク(未開封)、おしり拭き(未開封)、生理用品(未開封)、成人用オムツ(未開封)、子供用オムツ(未開封)、ホッカイロ(未開封)、軍手(新品)、乾電池各種(新品)、携帯用電池式充電器、雨具(新品)、歯ブラシ(新品)灯油、自転車(新品)、スコップ、懐中電灯(新品)、カセットコンロ、カセットガス、大きめのリュックサック、運搬用一輪車、マスク、防塵メガネです。

東日本大震災福一漁業に届く支援物資

会社の倉庫に集まった支援物資とボランティアの方々

3月16日(水) 漁撈部職員2名を石巻に派遣

3月15日に123福一丸・112福一丸・83福一丸・85福一丸の4隻が支援船として石巻に行くことを決定していたため、今後、被災地での船の統率や、現地の市役所や自衛隊とのやりとりが必要となることを予測し、災害対策本部からも2名の漁撈部職員(柳田・今野)を石巻に派遣することにしました。2名は乗用車にて、16日朝06:00頃に焼津を出発し、同日の19:00頃石巻に到着しました。その夜は石巻にある今野の親戚の家に宿泊させてもらい、翌日からは船に寝泊りすることになりました。

東日本大震災現地に向かう福一従業員

ボートで石巻に上陸した123福一丸の乗組員

3月16日(水)~18日(金) 大量の支援物資が福一漁業に届きだした

3月15日のラジオを聞いていた人たちから、うわさが広まり、市内だけでなく市外からも大量の支援物資が弊社に集まりだしました。そのため、災害対策本部の漁撈部職員は乗組員の家族の安否確認をする係と支援物資の受け入れをする係とにわかれることになりました。この日は平日にもかかわらず、19名のボランティアの方が朝早くから会社にきてくれました。

支援物資の募集は、あまりにも反響が大きく、約700名の方が弊社に支援物資を届けてくれました。福一漁業本社の倉庫はすぐにいっぱいになってしまい、焼津魚市場の冷蔵庫前の土地を借り、大量の支援物資が、そこに一時保管されることになりました。

東日本大震災福一漁業の倉庫に入りきらなくなった支援物資

(焼津魚市場の冷蔵庫前)

 

3月17日(木) 123福一丸 石巻大原地区避難住民へ支援物資を搬送

この日123福一丸に積み込まれていた残りの支援物資の一部を大原地区避難住民へ搬送しました。

3月18日(金)83福一丸 焼津入港。123福一丸が水産庁救援物資運搬船、白龍丸の荷物積み下ろしを手伝う。

この日、震災がおこってから、弊社にとって焼津港に入港する2隻目の船、83福一丸が12:50に焼津港に入港しました。83福一丸は、魚を満船した状態での入港でしたので、水揚げが終わってから福一漁業としては第3便目の支援物資船としてこのあと3月21日に石巻に向けて出港することになります。

83福一丸は、震災が発生した後に、初めて焼津港にてかつおのセリが行われた船です。震災があった直前のかつお相場が118円/kg~125円/kgでしたが、83福一丸のセリではかつお相場は180円/kg~200円/kgに跳ね上がりました。海外まき網船が一斉に切り上げて、今後原料が確保できなくなるというパニック相場です。83福一丸の次にセリを行った船では230円/kgまでかつおの値段が跳ね上がることになります。

一方、石巻にいる123福一丸は自分たちが運んだ支援物資は残りわずかとなっていたため、水産庁の救援物資運搬船、白龍丸の荷物積み下ろしを現地で手伝いました。海外まき網船ではボートを利用できます。石巻港では救援物資運搬船もがれきにより岸壁に接岸できない状態だったため、物資の運搬に非常に活躍したと聞いております。

東日本大震災物資の運搬に役立った小型ボート

物資の運搬に活躍した1号艇(ボート)

3月19日(土) 85福一丸・112福一丸 焼津入港。~3月20日(日) 112福一丸出港。

3月19日、17:00に112福一丸が焼津港に入港。85福一丸が17:30に焼津港に入港しました。112福一丸は、魚倉に魚をほとんど積んでいない状態だったので、入港後、すぐに募集した支援物資の積み込みを行い、翌20日の07:00に福一漁業としては2便目の支援船として焼津港を出港し、石巻へ向けることになります。85福一丸は230トンほどの魚が魚倉にはいっていたため、このあと水揚げを終了させてから福一漁業としては4便目の支援船として3月25日に焼津港を出港することになります。

3月20日(日) 83福一丸の水揚げ

焼津港では通常、日曜日は休市といって、市場が休日になるため、水揚げは行われません。水揚げをするには、市場はもちろんのこと、水揚げ屋。運送トラック屋。魚受け入れ側の冷蔵庫。など多くの人が動かなければ、水揚げをすることができません。しかしながら、たくさんの業者の協力のもと、乗組員を1時間でも早く被災地に行かせてあげたいという気持から、関係者の方々が働いてくれたおかげで、この日も水揚げをすることができました。

3月21日(月) 112福一丸 石巻着 83福一丸 焼津出港

3月21日、09:30に前日焼津港を出港した112福一丸が石巻に到着しました。112福一丸では、家族の捜索以外の人は、被災地で活動している自衛隊の手伝いが主な仕事となりました。

83福一丸はこの日の朝、08:55水揚げが完了し、すぐに支援物資の積み込み作業を行いました。その後、16:00に焼津港を出港して石巻へ向け出港しました。
123福一丸は、この日鮎川地区の避難住民に支援物資を搬送する作業を行いました。

3月22日(火) 123福一丸の残った支援物資を112福一丸へ移動

112福一丸 佐須地区避難民へ支援物資を搬送。83福一丸 石巻着

1便目の支援船123福一丸に積み込んであった物資は残り少なくなったので、2便目の支援船112福一丸に残った物資をすべて受け渡しました。物資を移動後、112福一丸は、佐須地区避難民へ支援物資を搬送しました。
前日焼津港を出港した83福一丸は16:00石巻に到着しました。

3月22日、海上保安庁が石巻工業港を調査。3月23日、石巻工業港使用許可が下りる。

3月22日の海上保安庁の調査によって、翌23日にようやく石巻工業港への接岸許可が下りることになります。

東日本大震災海面に浮かぶ大量のゴミ

石巻沖では大量のゴミが浮かんでいた。

3月23日(水) 112福一丸 石巻工業港接岸 自衛隊へ支援物資を受け渡した。(自衛隊のトラック4台分)

石巻工業港への接岸許可が下りたため、112福一丸は11時15に石巻工業港に接岸しました。そこで、待機していた自衛隊のトラック4台に支援物資を受け渡しました。

支援物資を自衛隊のトラックに積み込む

石巻港にて自衛隊のトラックに支援物資を岸壁から受け渡した。

3月24日(木) 83福一丸 石巻工業港接岸 自衛隊へ支援物資受け渡す。

10:00 83福一丸が石巻工業港に接岸し、支援物資を自衛隊に受け渡しました。

83福一丸は、焼津を出港するにあたり大量の清水を積込み石巻に向かいました。目的は飲料のほか被災した人々にお風呂を提供する事です。本船は船内に2ヶ所の浴室を備えていたため男女を分けることができ、乗組員が入港する前からその準備にかかり接岸後すぐに暖かいお風呂に入ってもらうことができ被災者の方に大変喜んでもらえました。

第八十三福一丸のお風呂

 

83福一丸のお風呂

3月26日(土)~3月28日(月)

第4便の支援船として3月26日の15:00に焼津を出港し、3月27日の19:20に石巻に到着し、翌日支援物資の搬送を行いました。

第四便支援船第八十五福一丸

第4便支援船 第85福一丸

最後に

弊社では50名ほど被災家族を抱える乗組員がいましたが、その乗組員の配偶者・両親・こどもまでの範囲で、2名の方が亡くなりました。それ以上の親族や親戚、あるいは友人などまで範囲を広げるとほんとうに多数の方が亡くなられました。
私の中で、震災のときの記憶はどんどん風化していきます。あのときのことを少しでも覚えているうちに、ここに、記録しておきます。

がんばろう日本

112福一丸 ズームイン取材時の写真

支援物資を寄付してくれた方々とボランティアの方の名簿

マスダゴム様・望月様・片山様・増田様・滝口製帆店様・芙蓉総合リース様・増田様・吉村様・鈴木様・菊川様・大石様・長谷川造船所様・エクセリ様・増田様・望月様・秋津様・鈴木様・松葉精肉店様・甲賀様・伏見様・光本様・永谷様・静岡ユーザック様・山田様・藤下様・植島様・高梨様・森健商店様・井上様・児玉様・山本様・ボーイスカウト第一団様・すずきジム様・新村様・平田様・林様・松野様・伊藤様・向島様・近藤様・鈴木様・石野様・松村様・ボーイスカウトカブ隊白組様・片山様・松永様・稲葉様・田島様・宮木様・小野田様・常泉様・明央様・平井電機様・杉山様・加藤様・畑中様・田村様・鰹節組合様・仁藤様・山本様・美容院RASA様・丸玄工芸様・大森様・市川様・押尾様・不二パン様・有ヶ谷様・静岡福祉大学地域交流センター様・川口販売様・浅田様・新潟原動機様・中西様・鈴木様・日新興業様・山田屋そば店様・鈴木様・萩原様・服部様・木下様・静岡ユーザック様・杉山材木店様・デュオ様・中野様・平成工業様・狩野様・岩田様・静岡WV有志様・三ユウ水産様・中野様・木村様・三保造船所様・竹嶋様・アサヒレジャー様・後藤様・高杉様・石川製業様・片山様・天野様・押尾様・木下製網様・見﨑様・河合様・長谷川様・伊久美様・森田様・大石様・大場様・近藤建設工業様・大住眼科様・渥美様・志太鉄工組合青年部さつき会様・水島様・長谷川様・長谷川様・東海ガス様・岡本様・服部様・近藤様・本郷焼津営業所様・緑星社様・山村包装様・赤木薬局様・金原様・藤沼様・寺田様・田口様・岩脇様・調剤薬局ヤナギ様・田中様・諸田様・小川幼稚園様・山本様・オカザキトラスト様・焼津市役所水産課様・長谷川様・セブンストアー様・カネデン様・鈴木様・見﨑様・長岡様・美容室CeLL様・中野様・吉田様・内浦漁業協同組合様・柳沼様・エス・プランニング様・ブルーアース会員有志様・中北薬局様・酒井様・中川森様・若山様・ヤマソウ水産様・増田酒店様・石橋様・井料様・介護施設タスク様・池谷様・ジョイフルパル様・中西様・黒石小学校様・米澤様・カネギ東海フーズ様・芳野様・池田様・山田様・伏見様・木村様・ジャレード様・大塚様・IGA防水工事様・光心寺様・鈴木様・一ノ瀬様・伊藤様・増田製作所様・平塚様・由比港漁業協組合様・若杉様・青木様・山﨑様・野々村様・起立木工様・杉本様・静清塗料様・里様・渡辺様・伊藤様・増田様・藤村様・須藤様・川口様・静岡アロハクラブ様・秋山様・佐野様・岡村様・小川様・エーアンドエー総合設計様・中川様・東海海洋大学様・香川様・石津興業様・横田様・石田様・近藤様・山田様・静岡塩業様・鈴木様・橋本様・栗田様・長谷川様・長澤様・望月様・大住眼科様・八木様・安住様・大里様・松村様・近藤様・匿名希望様・いいよいいよ様・岡村様・山川様・ツボイ様・蟹谷様・綿間瀬船舶様・大沼様・杉﨑様・小林商店様・林叟院様・橋ケ谷様・松本様・富士冷・柳屋本店様・総和建工様・前田様・濱村様・小柳様・中谷様・志太建築士会様・岡村様・鶴木様・原川様・中島様・オートベル様・大島水産様・五條様・久保田様・前島様・山本様・ヤンマーエネルギーシステム様・新村様・福田様・塩沢様・青木様・三浦様・岩田様・村松様・奥川様・吉澤様・櫻木様・村松様・山田様・山口様・孝道山婦人部様・小林様・静岡アロヒラニーズ様・相澤様・岩田様・片山様・ヒバリヤ様・安住様・松田様・石野様・米山商店様・鈴木様・松浦様・内藤様・渥美様・下石様・岡田様・ひまわり様・岩井様・鈴木様・大石様・岡村鉄工所様・小長谷様・長房様・るりそう薬局様・大村様・鈴木様・赤石様・山口様・吉田様・渥美様・三好様・エムズキュア様・秋山機械様・石黒様・小林様・鳴嶋様・亀山様・大石様・筒井様・山田様・松本様・佐藤様・青木様・山本様・マリンハイドロテック様・高村様・松永様・五條様・本郷石の様・中部電力様・山本様・石川様・北川様・中岡様・木村様・大石様・鈴木様・村松様・篠宮様・矢野様・岩田様・ヴィズリンクス様・河村様・西野様・土屋コーポレーション様・尾上様・東海造船運輸様・御前崎市議会議員大澤様・望月様・梅原様・小林様・藁科様・佐野様・焼津メリヤス様・山福水産様・菊川様・西静岡ヤクルト様・富士通様・新村様・名神様・柚木様・増田様・滝様・青木様・高島様・北島様・大塚様・篠宮様・斎藤様・曽根様・松本田様・クリアサイエンス様・包装センターアオキ様・佐藤様・西村様・新屋幼稚園PTA長橋様・竹井様・望月様・仁藤様・落合様・松橋様・フィッシング遊静岡池田店様・つばさ豊田デイサービス様・青木様・長谷川様・八木様・北原様・長島様・北島様・松下様・浦田様・中山様・三浦様・服部様・小塩様・田口様・春山様・大石様・寺田様・村松様・岩崎様・伊志川様・辻様・藤川様・古谷様・石上様・大橋様・大石様・山田様・松本様・鈴木様・小川様・渥美様・石垣様・内田様・茂木様・青嶋様・松本様・ひまわりの会様・神尾様・長島様・澤口様・土屋様・津浦様・森下様・池田様・内田商店様・山中様・秋山様・渡辺様・永田様・静岡アロヒラニーズ様・古野電気様・山田様・山村様・岡谷様・久保田様・木村様・原崎様・渡辺様・トリオ様・大島様・藁科様・中部健康福祉センター様・青野石油様・中嶋様・天野薬局様・松本様・山田様・長谷川様・矢野様・総和建工様・大村様・野村様・石川様・藤枝財務事務所様・花枝様・長岡様・渡辺塾様・片山様・亀山様・パパユージ様・カメラの横山様・鈴木様・石井様・秋山様・秋山様・昭和建設様・中部危機管理局様・イケダ薬局様・藤田様・焼津市医師会ヘルパーステーション様・遠藤様・鈴木様・八木様・新村様・増田様・岩田様・大石様・草ヶ谷様・中部出納室様・石田様・松本様・かんぽの宿焼津様・村松様・横井様・永谷様・常泉様・大政様・山本様・東谷様・鈴木様・中部地域支援局様・モリタ(静岡)様・榊原様・仁藤様・池田様・田中様・石田ガラスサッシ販売様・狩野様・久保山様・本保様・飯塚様・フォルテ様・志太榛原農林事務所様・新村様・落合様・齋藤様・堀井様・石原様・松浦様・河合様・池田様・飯塚様・間久様・八木様・市駒製網所様・辰己事務機様・氏家様・小澤様・鈴木様・長谷川様・勝見様・本郷焼津営業所様・野崎様・小川様・岩部様・平田様・山本様・石井様・須藤様・中野様・沼津市物産様・塚本様・セイブストアー様・レジェンドエンタープライズ様・小林様・井原様・見崎様・杉山様・中野様・古山様・石野様・川﨑様・村上様・大塚様・岡田製茶様・齋藤様・9自治会第4町内会様・佐藤様・花崎様・吉田様・須藤様・石野様・石田様・村松船舶様・渡辺様・渡辺様・松永様・田崎様・ドクター製作所様・長島様・青島様・野村様・増田様・佐藤様・けい美容室様・山川様・森田様・酒井様・本間様・日鳥様・木村様・小池様・藤田屋様・時田様・浅原様・増井様・岡村様・福水様・西谷様・稲葉様・杉山様・増田様・牛山様・海事代理士小林様・森様・四條様・望月様・坂本様・岡田様・両田様・中嶋溶接工業所菊川様・藤枝明誠高校高一有志様

ボランティアの方々
中嶋様・本橋様・佐藤様・黒田様・石原様・山崎様・山崎様・橋ヶ谷様・石川様・小泉様・山本様・石黒様・石黒様・大島様・長谷川様・松本様・鶴橋様・木下様・日新興業様